◇序章◇
雪は忌々しい記憶を呼び起こす。
思い出すにはあまりに痛く、忘れるにはあまりに悲しい魂の傷跡。
春の女神の息吹が癒してくれるものならば、古傷も大気にさらして見せようものを。
窓から差し込む春の日ざしに背を向けて、青年は小さく息を吐いた。
王国の北の果て、ゼルテニアの春は遅い。
彼の生まれ育った土地ならばとうに春の便りが届いていることだろうに。
つい先日までの溶け残った庭先の雪が、泥まみれで消えていく姿を想像しながら、我知らず彼はまた息を吐く。
冬の間中、暗く重く垂れ込めていた雪空は、若い野心家の心に打ち込まれた「感傷」という名の楔を軋ませ続けた。
立ち止まる程ではないにしろ、無視できない痛みを伴って、白い結晶は灰色の大地に降り積もる。
忌々しい雪の記憶。
冬の落日に想い、春の日ざしにまたそれを想う。
彼の頭からそれが消え去ることはただの一度もなかった。
(…結局、忘れることなんて出来ないんだな)
空気までもが凍てついた、降りしきる雪と血の匂い立ち篭める戦場で、青年はその生命以外の全てを無くした。
愛しい妹と、たった一人の親友。そして、北天騎士団の棟梁ベオルブ家に従う騎士としての約束された未来。
彼の手の及ばない意志によって、また彼自身の意志によって、全ては失われたのだった。
あの日、物言わぬ妹の小さな肩を抱いた青年の腕には今、引きつれた火傷の痕があった。消えゆく命の灯を少しでも繋ぎ止めようと、妹の手を取った、その右手だった。
その痛々しい傷跡を空気にさらす度に彼は思う。
あの炎の中、生き延びられたのは奇跡だった、と。
天を突く紅蓮の炎が、彼自身をも奪おうとしたあの時…愛しい妹が、生きる為の力を自分に貸してくれたのだ。
だからこそ、自分はいまここにこうしていられるのだと、そう信じることに彼は決めた。でなければ、生き残ってしまったこの生命さえ、ぶつける宛ての無い復讐心の標的になってしまっていたかもしれない。
歳月と共に、身体の傷は癒えて。
いつしか兄は妹に、貸してくれたものに値するものを返してやりたいと思うようになっていた。何処に返せば良いのか、それすらも分からぬままに。
革手袋に包まれた右手に、火傷の痛みはもう無い。
彼の手は、過去を追憶する為ではなく、未来を奪い取る為に必要なものだった。
傷を負った当時に麻痺していた感覚を取り戻すように力を込めて拳を握ると、喪失感を埋めてくれるものが漲ってくるような気がする。それが錯覚かどうかは、彼にはもはやどうでも良いことだった。
失ったものは何一つ戻っては来ない。だから、自分で手に入れるしかないのだ。
今、ディリータは、幾つかのものを自らの力で手に入れており、これからさらに多くのものをその手に掴み取ろうとしていた。
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