ゼルテニアの長い一日

◇2◇

 人気のない廊下に硬質の足音が響き渡る。
 執務室の前で足音が途絶えると、今度は樫の扉を数度叩く音が聞こえて、ディリータの副官のバルマウフラが入室してきた。
 バルマウフラは、ディリータと同年かやや年上に見える、冷静で落ち着いた印象の強い美女である。魔道士然とした衣装に身を包み、長い金髪を一つに束ねて後ろに垂らし、颯爽と風を切って歩く姿には、一部の無駄も感じられない。ゼルテニアでは、彼女は黒羊騎士団団長ディリータの副官ということになっている。それは表向きの姿で、実際には教会が「計画」の補佐の為に送り込んできた人員だったが、どちらかというと神の存在など全く信じていそうにない雰囲気がなんとなく可笑しくもあった。
 バルマウフラ本人は、教会からここへやってきた理由を「ディリータの監視」と言ってはばからない。本心は教会に従う気のないディリータにとっては、懐に爆弾を抱えているようなものだが、他に頼りになる人材もいないとあっては彼女を使うしかなかったのである。
 実際にバルマウフラは有能な副官であり、ディリータ自身も彼女に頼むところは大きかったので、互いに本心を隠し牽制しあうこの厄介な関係を、当面のところ二人は続けるしかないようであった。

「騎士団の人員補充の名簿を貰ったわ。一応目を通しておいて頂戴」
にこりともせずに、バルマウフラは手にした紙束を、先刻この部屋の主人がそうしたように、机の上に投げ出した。言われたディリータは頷いてそれを手に取ると、興味無さそうに数枚の書類をめくった。
「志願者も多いわよ、大した人気ね」
「何せ俺は期待の出世株だからな。今の内に取り入ろうって輩も多いのだろうよ」
ディリータは冷笑した。英雄として祭り上げられることを意図して行動してきた結果だが、こうもあっさり成功するとは騙し甲斐のない…そういって肩をすくめると、バルマウフラが片眉を釣り上げてそれに応じる。
「せいぜい期待だけで終わらないようにね。兵達はともかく、『猊下』の期待には応えてもらわないと困るわ」
「おい」
穏やかならぬ発言にディリータの心臓が軽くステップを踏んだ。
「誰も聞いちゃいないわ。聞いたってなんのことだか分からないでしょうし」
あっさりとバルマウフラは言ってのける。ディリータは浮かしかけた腰を椅子に戻した。動揺を隠すように声を低く整えて口を開く。
「…用はそれだけか」
「いいえ、残念ながら。北天騎士団が動くわ。じきにベスラから知らせも届くはず。こちらものんびりしてはいられないようね」
「そうか…」
ディリータは頬を撫で回しながら思案しているようだった。
(計画は順調に進んでいる。すぐにゴルターナ公にも報が届き、大規模な出征の命が下るだろう。あとは…)
「今のうちにオヴェリアに会いに行っておこう。たまには機嫌を取っておかないとな」
 不謹慎にも主君である女王の名を呼び捨てにしておきながら、悪びれた様子も見せない。ディリータにとって女王オヴェリアは絶対の主人などではない。そのことをバルマウフラは良く知っていたが、それがディリータが自ら口にするような「利用する為の駒」だけの存在ではないということにも気付いていた。
 会いたいならポーズを取らずにそういえばいいのに、そうも思ったが、バルマウフラが口にしたのは別のことである。
「女王陛下はオーラン卿と歓談中よ。夕刻までは無理でしょうね」
「例の御前授業か」
「陛下はあの善良な軍師殿がお気に入りのよう。貴方もうかうかしてはいられないんじゃなくて?」
バルマウフラの視線が悪戯っぽくきらめいた。これくらいの冗談は言い合える仲なのだ。それをディリータがよしとするかどうかは別の問題ではあるが。
「……知ったことか!」
 吐き捨てて、これ以上は不要と副官の退室をうながした。苦虫を二、三匹噛み潰したようなディリータの顔を視界の端に捉えて、バルマウフラは小さく微笑った。
「じゃあ夕刻に、女王陛下の御前に」

 バルマウフラの仕事は、ディリータをからかうことだけでは勿論ない。
 グレバドス教会の聖地ミュロンドとのパイプ役やゼルテニアでの情報収拾、末端の兵士達への意識操作(早い話が噂の流布)、果ては黒羊騎士団の騎士団名簿の作成、と様々であった。純粋に仕事の内容だけを見ると、情報を扱っているという点で、件のオーラン・デュライのそれと非常に似通っている。本人達の預かり知らぬところではあるが、お互いの苦労話ならばさぞかし気があったことであろう。ただし現実には、バルマウフラの愚痴を聞いてくれる人物は存在しなかったので、彼女はただ黙々と任務をこなしていた。
(それにしても)
 重い樫の扉を背にして、バルマウフラは呟いた。
 ディリータ・ハイラルは隙を見せない。教会に対して従順なだけの羊ではないことは、始終傍らにいるバルマウフラには分かり切っていることだった。彼女が「お目付」以上の役割を持たされて側にいる事情にも、薄々気付いているだろうに、ディリータは気にしているそぶりもみせないのだ。
 あれくらいの覇気がなくては勤まらない任務だと彼女の「上司」は語ったが、野放しの獣の首にぶら下げられた「鈴」の立場としては、気が抜けなくて迷惑なだけの話であった。

 かつてはベオルブ家所縁の者として将来を嘱望されていた騎士見習い。やがて貴族社会の歪みに直面し、その改革を唱える教会側に身を投じた…。これが、バルマウフラがディリータの過去について教えられた全てだった。
 ディリータ本人は決して多くを語ろうとはせず、ただ一度だけ、酒の席で「妹を守れなかった」ことへの後悔を口にした。酒気を帯びた瞳の中に、バルマウフラはディリータの本心の尻尾を垣間見た気がしたのだった。
 扉の向こうで独り、ディリータはどんな時を過ごすのだろう。そして、どんな時を過ごして来たのだろう。
 知る必要はないと思い、また同時に、知りたいと強く思った。艶やかな金髪を指ですきながら、バルマウフラは自分より一つ年下の青年の、神経質そうな横顔を思い浮かべた。端正な顔の造りとは相反するような、冷たい炎を秘めた瞳がすぐに脳裏をよぎる。
(まるで、ぎらぎらとした、抜き身の刃のような)
 ディリータの内に揺らめく炎の正体が何なのか、正確なところはバルマウフラには分からなかった。
(復讐か、野心か、それとも…)
 咲きかけの百合のような少女の顔が浮かんで消えた。
(ディリータは、オヴェリア女王の為に…?)
 彼女の話をする時に、心なしか表情の和らぐディリータに気付いているのは、おそらくバルマウフラだけだったろう。ディリータ自身も気付いてはいない。だが、分かっていてもわざわざ教えてやるような義理は彼女にはないはずだった。
「馬鹿馬鹿しい、わたしはわたしの仕事をやるだけよ」
 宣言、というより自身に言い聞かせるような台詞であった。そうして不鮮明な想いを胸の内から振り払って、バルマウフラは執務室を後にした。やや、その足取りがいつもの軽快さを欠いているように、他人が見れば思ったかも知れない。

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