◇6◇
オーランが退室した後、夕食の準備をしようとする侍女たちも近寄らせず、オヴェリアは広い部屋で独り黙していた。
窓から入る春の夜風が、オヴェリアの蒼白い頬を冷たくなぶる。
(きっと彼は呆れただろう)
そう思うと胸がつまった。ようやく見付けた信頼に値する人物を、みすみす失望させてしまったことに自責の念を隠し切れない。どうして自分はこうなのだろう。
いっそのこと、こんな小娘に玉座など与えたのが間違いだったと、全てを取り上げられて修道院に送り返された方がどんなに気が楽か。
誰もが自分のことを無知で無力な女王だと嘲っているだろうに、誰も本当のことを言ってはくれない。そして、本当にほしい言葉をくれる人もいない。ただ一人、彼女に国を捧げると誓った、あの青年を除いては。
巧言令色、心にも無い賛辞、下げた頭の下にある嘲笑、侮蔑。ここゼルテニアで沢山の家臣や奉公人たちに囲まれながら、オヴェリアの心の渇きは日々進行していくようだった。
ふと、扉を隔てた向こう側で言い争いの声らしきものが聞こえる。何だろうと耳をそばだてた瞬間、扉が開き侍女の一人が入ってきた。
「一人にしてほしいと」
続けざまに入ってきた人物を見て、オヴェリアは口を閉ざした。
無言のまま部屋に入ってきたのは、ここゼルテニアでそう多くはない彼女の見知った顔だった。忘れようとて忘れられぬ、たった一人のオヴェリアの騎士。
狼狽するオヴェリアの心を知ってか知らずか、ディリータは迷いの無い足取りで、真っすぐにオヴェリアに近付いてきた。
そしてその場にひざまづくと、オヴェリアの白い手を取って、優雅に口づけた。どこかしらぎこちなかったオーランのそれと比べ、動作が遥かに洗練されている。
「急な参上で御無礼は百も承知。ですが、陛下に至急お聞き遂げ頂きたい義がございまして」
参上した次第でございます、と言ってオヴェリアにだけ見える角度で、瞳で笑いかけた。
次いで入室してきたものの、ディリータの様子に呆気に取られた侍女たちは、どうしていいか分からずオヴェリアの表情を伺っている。若い女王は緊張しているように見えた。
「貴女たちは下がっていて頂戴。彼の話を伺います」
心なしかうわずった声でオヴェリアが命じる。主人の命とあらば絶対である。怖ず怖ずと退室する侍女たちと入れ違いに、若い魔道士風の装束の女性が入ってきた。こちらは見覚えの無い顔だった。歳の頃はオヴェリアより二、三歳上か。落ち着いた物腰と知的そうな瞳が、実際よりも彼女を大人びてみせているかもしれない。
女魔道士、バルマウフラはディリータの傍らで彼にかがむように手で指示し、何かしら耳打ちをした。心得たようにディリータが頷く。オヴェリアの深淵で何かが揺らめいた。
そんなオヴェリアに気付いてか、ディリータが再び向き直って声をかける。
「これは副官のバルマウフラ。俺の協力者で、全てを知っている。気を使う必要はないさ」
バルマウフラが一礼する。型通りの丁寧な挨拶は、何故か反感だけがそそられた。
その時突然オヴェリアは、自分の身内に巣食う醜い感情を自覚した。慌てて視線を窓の外へずらす。そして胸中に呟いた。これではまるで…。
ディリータがゆっくりと近付いた。
「…春とはいえ、夜はまだ冷える。窓は閉めておいたほうがいい」
その声音ははっとするほど優しかった。
小さく頷くと、ディリータが手を伸ばして僅かに開いていた窓を閉めた。視線が合い、緊張が静かに溶けていくのが感じられた。
期せずして、その窓辺で二人は向き合う形となった。
こうして面と向かい合うのは随分と久しぶりだった気がする。前に会ったのは何時だったろう。
最後に会った、あの日。朽ちた教会の跡地で、その広い胸に顔を埋めて泣いた記憶が鮮明に思い出され、オヴェリアは赤面した。そのままうつむいて火照る頬を冷たい掌でそっと包むと、ようやく動悸が静まる。あんなに泣いたのは子供の頃以来だったし、何といっても殿方の胸の中だったのだ!
「久しぶりだな、こんな風に会うのは」
ディリータも同じことを考えていたことが分かってますます顔が上げられなくなった。
「覚えているか?あの約束を」
静かな声が降り注ぐ。その安らげる響きにオヴェリアは耳を傾けた。自分はずっと、この声が聞きたかったのかもしれない。
《お前のための国を俺が作ってやろう》
人気の無い教会跡の片隅で、利用され流されるばかりの我が身を嘆き心を閉ざした哀れな少女と、彼女の騎士との間で交わされた、神聖なる誓い。
そう言って、だからもう泣くなと肩を抱かれたとき、胸に込み上げてくる熱いものを堪えることが出来なかった。それまでの不安も絶望も孤独も全てディリータに預けて、ただ子供のようにオヴェリアは声をあげて、泣いた。
王になりたかった訳でも、国がほしかった訳でもない。ただ、安らぎがほしかった。安らげる場所が必要だった。そしてあのときのオヴェリアには、それがディリータの傍らにあると、嘘偽り無く信じられたのだった。
ディリータの思惑がどこにあるのかオヴェリアには知るすべもないが、彼に対して感謝に似た感情を抱いているのは確かであった。
あることに思い当ってオヴェリアは顔を上げた。
「わざわざ部屋まで来るなんて、何かあったの?」
侍女たちにどんな噂を立てられるやら気が気ではない。風聞も物ともせずに自分に会いにきてくれた、そう思えば嬉しいが、オヴェリアの思考回路はそこまで幸せには出来ていなかった。ディリータは意外そうにオヴェリアを見て、苦笑した。
「何か無ければ来てはいけないのか?」
「そんなことは!…ない、けれど…」
慌てて声を高くしたオヴェリアにディリータは人の悪い笑みを見せる。
「…冗談だ。話があるといったろう?」
からかわれたことに気付いたが、どんな形で非難すればよいのか分からずオヴェリアは閉口した。こういうことに慣れていない。
「喜べ、本当の王になれる日は近いぞ」
まるで宝物を見付けた少年のような眼差しであった。オヴェリアが瞳を瞬くと、再び苦笑に近い色がそこに浮かんで消えた。
「近日中に南天、北天騎士団両軍がベスラ要塞に集う。勿論ラーグ、ゴルターナ両公爵もな……この戦争最後にして最大の衝突となるだろう」
オーランのような配慮はディリータには無い。オヴェリアは眉をひそめた。
「最後?」
「…詳しい話は無しだがな。公が帰還なさる頃には、お前こそがイヴァリースの王であると万人が認めるようになるさ」
「どういう意味なの?」
その意味を受け止め損ねて思わず聞き返した。ディリータの言葉はいつも少なすぎてオヴェリアには理解に苦しい。頼もしい騎士殿の欠点といってもよかった。
「南天騎士団が勝利を収めれば、ゴルターナ公に異を唱えられる人はいなくなる、そうでしょう」
絶対権力の座に着いた公にはやがて、オヴェリアの存在が邪魔になる。そうすればいずれは「不慮の事故」で「早逝した女王」の後継を自らの一族で埋めようとするだろう…
その想像はオヴェリアを震撼させた。
それでは、ラーグ公に捕われていようとゴルターナ公に匿われていようと辿り着く先は一つではないか。オヴェリアには自らの未来を選ぶ権利さえ無いというのだろうか。「今度はわたし、南天騎士団に生命を狙われるのかしら?」
自分は途方もなく愚かな選択をしてしまったのではあるまいか。たかが一、二年の生命を惜しんで、戦局を混乱させる手助けをしてしまった…?あの時死んでいれば、とうに終結していた内乱かもしれないのに。
「落ち着け、そんなことにはならない」
俺がさせるものか。そう心の中で付け加えるが、もちろんそれは誰の耳にも届きはしない。ディリータは、オヴェリアの肩を掴んで、諭すようにその顔を覗き込んだ。
「大丈夫だ。…俺たちに任せておけ。決して悪いようにはしないから」
「わからないわ、貴方の言っていることが」
「オヴェリア」
ディリータは身をよじって離れようとするオヴェリアの、今度は手首を掴んで自分の側に引き寄せた。オヴェリアは顔を背けて目を合わせようとしない。
「……こっちを見ろ」
ディリータの視界の端で、これまで気配を殺していたバルマウフラが動いた。何か言いたげであったが、ディリータがその機先を制した。
「…外せ」
低い声で高圧的に命じる。バルマウフラはため息を飲み込んで、無言でそれに従った。
オヴェリアがそちらへすがるような視線を送ったが、虚しくその背中をかすめたに過ぎない。
無情にも扉の閉まる音がして、部屋にはディリータとオヴェリアだけが残された。
長い沈黙が二人の間に流れる。捕まれた手首の痛みだけが身体の全感覚を支配しているかのようにオヴェリアには思われた。
「離して…下さい」
やっとのことでそれだけ言うと、意外にも鉛のようだった腕があっさりと離れ、オヴェリアは自由を回復することが出来た。
「…乱暴にして悪かったな」
いささかなげやりな謝罪には照れ隠しの成分も幾分含まれていたと思われる。オヴェリアから顔を背けて、窓の外に目を向けてしまった。
夕闇が、世界を飲み込もうとしている時刻であった。
オヴェリアは、ディリータの精悍な横顔を不思議な気分で眺めていた。手首を強く掴まれたとき、感じた恐れはもう無い。ばつの悪そうな表情にはむしろ親しみを感じるほどだ。
(まるで親に叱られた子供のよう)
いつも尊大な態度を崩さないディリータの意外な一面を見た気がする。少し気持ちが軽くなって、もう一度ディリータの言葉を吟味してみる気になった。
「…ごめんなさい。貴方を怒らせるつもりじゃなかったの。ただもう少し、説明してもらえないと、わたしには何も分からないから…」
ディリータは窓に額をこつんと当てた。自嘲めいた笑みを洩らしてオヴェリアに向き直る。
「知らないほうがいいと、思ったんだよ」
「今も、そう思っている?」
ディリータは頷いた。
「お前は女王だ。毅然と前を向いていればそれでいい。…俺は、お前の国を作るために出来ることは何でもする。それだけで充分じゃないか?」
「わたしは本物の王女の身代わりなのよ…とてもそんな風には思えないわ」
秘めていた思いを吐露する。ディリータ以外にはぶつけるあてもないオヴェリアの秘密。
時計の針を戻せないことは分かっているが、せめて何も知らなかったあの頃に戻れたら。
「身代わり?それが一体何だというんだ。どこにもそんなものを証明する証拠はないだろう!オリナス王子だって本当に先王の子かどうか怪しいものだぞ」
ディリータの返答は苛烈なものだった。吐き捨てるように言って、後を続ける。
「考えても見ろ。お前と俺と、あいつらと…何が違う?どこが違う!違わないさ。なのに貴族の子に生まれたというだけで俺たちが一生かけても手に入れられないようなものを、何の努力もしないで手に入れるんだ!」
そして、その上俺から大事なものを奪っていったんだ…。
悲痛な面持ちでディリータは呟いた。
以前語った亡くなった妹のことを言っているのだろうか。オヴェリアには分からなかった。
ディリータがオヴェリアの前でこれほど感情を顕にしたのは初めてであった。彼女の前で見せていた「騎士」の顔は仮面であったのか、どちらが本当の彼なのか判然としない。
「…貴方は妹さんの復讐をするつもりなの?」
聞いた後で後悔をした。オヴェリアが踏み込むべき領域ではなかった。
ディリータの瞳が憎悪にも似た炎をはらんで燃え上がる。射竦められて、動けない。
「…お前には、関係の無いことだ」
聞こえるか聞こえないか、ぎりぎりまで低められた声が震えた。それはそのまま、押さえこまれた激情を表すものだった。
それでもオヴェリアには言っておかなければならないことがあった。
「わたしは、復讐に手を貸したくはないの。たとえ利用されることに変わりは無くとも、それだけは」
返答はなかった。ディリータの瞳から熱が引いてゆく。代わりにそこに宿ったのは、深い、冷ややかな光。
ディリータはもうオヴェリアを見ようとはしなかった。ゆっくりと背を向けて、扉の方に歩いていく。見送るオヴェリアの胸も張り裂けそうであった。
(何故、そんな目をするの…?本当はどうしたいの?わたしには、分からない…分からないのよ)
オヴェリアの問いに答えてくれる者はない。ディリータの背中は全てを拒絶しているように見えた。
重たく木の軋む音がして、扉が開かれた。
「……また来る」
ディリータは、振り向いてオヴェリアを見ただろうか。うつむいてしまったオヴェリアには、確認をすることは出来なかった。
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