マイク・ネスミスの略歴


 本名Robert Michael Nesmith。
 1942年12月30日、テキサス州ヒューストンにて、父ウォーレンと母ベットの第一児として生まれる。3歳のとき両親の離婚を経験し、貧しい生活を余儀なくされる。中学生時代は友達があまりできず、高校生時代は歴史の授業が大嫌いで、よく学校をサボっていたらしい。

 18歳のとき、ふざけて持っていた爆竹が手の中で爆発。指のリハビリの為に買ってもらったギターが、音楽活動を始めるきっかけとなる。
 サン・アントニオ大学に入学したマイクは、同級生だったジョン・ロンドンらとバンドを組む。大学在学中に同級生と結婚。卒業後は本格的な活動するために妻子を連れてカリフォルニアに移る。そのときのマイクの所持金は3ドル65セントだったとか。

 1965年、芸能業界誌の広告を見て、コメディー番組『モンキーズ・ショー』のオーディションを受ける。400人を超える応募者のなかからモンキーズのメンバーに選ばれたマイクは、トレードマークの毛糸の帽子をかぶって毎週テレビに出演。また、大ヒットしたモンキーズ名義のレコードには、彼の曲がいくつも収録されている。


 モンキーズ在籍中ではあったが、リンダ・ロンシュタットが在籍していたストーン・ポニーズへ曲を提供したり、インスト・アルバム『Wichita Train Whistle Sings』を発表するなど、マイクは個人的な音楽活動にも力を入れていた。のちのエリア・コード615となるミュージシャンたちとナッシュビルでセッションしたのも、モンキーズ在籍中だった。

 1969年11月、契約期間が残っているにもかかわらず、違約金を払ってモンキーズから脱退する。翌年、ジョン・ロンドン(ベース)、レッド・ローズ(スティール・ギター)、ジョン・ウェア(ドラム)とともにMichael Nesmith & The First National Band(以下、FNB)を結成し、『Magnetic South』、『Loose Salute』、『Nevada Fighter』を発表。1971年に解散する。

 FNB解散後は、Michael Nesmith & The Second National Band(以下、SNB)を結成。『Tantamount to Treason vol 1』を発表後、SNBは解散する。1972年、ソロ・ミュージシャンとして活動を開始。『And the Hits Just Keep on Comin'』(1972年)、『Pretty Much Your Standard Ranch Stash』(1973年)、『The Prison』(1975年)、『From A Radio Engine To The Photon Wing』(1977年)、『Infinite Rider On The Big Dogma』(1979年)などを発表。イアン・マシューズやバート・ヤンシュをプロデュースしたのも1970年代だった。

 1980年代は、市販ビデオの製作や映画のプロデュースが主な活動となる。1981年に発表した家庭用音楽ビデオ『エレファント・パーツ』は、翌年グラミー賞ベスト・ミュージック・ビデオ賞を受賞。劇場公開用の映画では『タイムライダー』(1983年)、『レポマン』(1984年)、『テープへッズ』(1988年)などのプロデューサーを務めた。
 1980年代は、MTVで再放送されたモンキーズ・ショーをきっかけに人気が再燃した時期でもあった。しかし、マイクはモンキーズとしての活動にはあまり参加しなかったようだ。

 1997年、モンキーズ時代の仲間であるミッキー、デイビー、ピーターといっしょにアルバム『JUSTUS』を発表(モンキーズ名義)。本国では、雑誌やテレビなどでもだいぶ取り上げられたとか。JUSTUSは1998年のグラミー賞第2次選考に残るが、惜しくもノミネートはされなかった。

 1998年、小説『The Long Sandy Hair Of Neftoon Zamora』を発表。また、現在は映画の脚本の執筆やサウンドトラックの制作、母が残した財団の代表者としての活動を主としている。 [6/6/1999]